安積商業高等学校-駒澤大学-読売ジャイアンツ (1976 - 1989)
1975年 ドラフト3位
中畑家は陸奥石川氏の一族で、前九年の役に石川有光の子の九郎光幹が中畑と称したことからはじまる(『白河古事考』)。戦国時代にはその系統の国神城主の中畑晴辰(はるとき)[40]が抵抗したために、豊臣秀吉から改易されて、浪人・土農の落ち武者狩りで討たれた(広瀬蒙斎『白河風土記』)。中畑はその晴辰の子孫である。
祖父の代に、横浜戸塚で土木業を営み成功したものの、瓦工場に商売替えした後で失敗し、息子の辰雄(清の父)を含む一家とともに帰郷した。中畑は貧しい少年時代を過ごしており、後に「米に牛乳のせる生活体験したらどんなつらい生活でも耐えられるよ」と述懐している。その後、郷里福島での牧畜業で成功した結果、父・辰雄にグローブを買ってもらったのがきっかけで、野球に本格的に取り組むことになった。
高校時代は無名の選手だったが駒沢大で才能を開花。
駒大三羽烏と言われた平田、二宮と揃って巨人に入団。当初は三塁手を努めていたが、中畑が故障で離脱している際に原を三塁にコンバートしたため中畑は一塁手に転向。
当時の藤田監督はこのことについてイトイ新聞にて「中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だった」と語っている。
何を聞かれても絶好調! と答える絶好調男として、またチームのムードメーカーとしてファンに愛された。
パワナンバー
13500 60522 99344
画像ファイル置き場
中畑清は、監督になった。 - ほぼ日刊イトイ新聞
https://www.1101.com/nakahata_kiyoshi/2013-12-16.html
0 件のコメント:
コメントを投稿