2020/01/13

パワプロ2018 ウォーレン・クロマティ パワナンバー

ウォーレン・リビングストン・クロマティ(Warren Livingston Cromartie) #49
マイアミ・ジャクソン高等学校-マイアミ・デイド短期大学-モントリオール・エクスポズ (1974 - 1983)-読売ジャイアンツ (1984 - 1990)-カンザスシティ・ロイヤルズ (1991)

1986年成績 .363 37本 98点 OPS1.095

野中英次による日本の漫画。またそれを原作とする同名のテレビアニメ、実写映画。

東京都立クロマティ高校、そこは選りすぐりの不良達が揃う、「ワルのメジャーリーグ」とも言われるほど恐れられている高校である(そして驚くほどのバカぞろいでもある)。
主人公・神山高志は優等生ながらも、中学時代に助けてもらった親友と同じ高校に行くため「引き算ができれば入学できる」というクロマティ高校を受験したのであったが、その親友は不合格となってしまったため、結局神山1人が入学してしまう。

クロマティ高校沿革
・1923年:東京府立第四十九中学校創立。東京府師範学校教頭、水原茂之進が初代校長に就任。同年、関東大震災で校舎早くも全壊。
・1930年:初代総番長に河上哲春就任。「喧嘩相手が止まって見えた」との名言残す。
・1943年:都制施行に伴い、校名を東京都立第四十九中学校と改称。
・1944年:第一回最強決定武闘会開催。空襲により勝者決まらず。
・1945年:終戦
・1946年:有志がGHQに喧嘩を売りにいくもガムをもらってなだめられて帰宅。学校側には厳重注意。
・1948年:新制高等学校制度実施により東京都立第四十九高等学校と改称。
・1950年:東京都教育委員会規則第一号により、校名を東京都立クロマティ高校と改称。
・1951年:クロマティ高校PTA誕生。
・1952年:新校舎落成式。
・1956年:体育館、及びプール落成式。
・1958年:初の文化祭を開催。集団食中毒事件発生。以後5年間文化祭自粛。
・1960年:「第一回東京都番長連合会議」本校主催で行われる。番長・永島重夫「クロマティは永久に不滅」の言葉残す。
・1961年:永島重夫、その功績をたたえ「永久名誉番長」となる。
・1963年:最強決定武闘会で、優勝者が手続きミスのため優勝取り消しに。 名前の書き忘れで書類に不備。
・1966年:生徒会で学校への凶器持ち込みが正式に禁止される。
・1968年:卒業式に警察介入。「5 VS 5異種格闘技戦」に発展。
・1969年:京都への修学旅行で、教師も含めて学校丸ごと迷子になるという前代未聞の事件勃発。
・1970年:「番長連合会議」を「番長サミット」に改称して開催。
・1971年:学生運動に一枚噛もうとするも、趣旨が理解できず脱落
・1974年:PTAからの圧力に反発した学生が決起。PTA対クロ高生のボクシング対決へ。代表者が両者KOで決着つかず。 以後ボクシングによる更生が図られる。
・1975年:クロマティ高校、全国高等学校野球選手権大会で初の予選二回戦進出。
・1978年:第一回合唱コンクール開催。「夢は夜ひらく」を歌った2年3組優勝。
・1979年:入学試験の日にちを学校まるごと間違える。結果この年は試験は行われず希望者は全員入学。後に「空白の一日」と呼ばれる。
・1980年:伝説の「謎の校舎大爆発事件」起こる。以後二週間の学校閉鎖。
・1981年:校舎全面改築。
・1982年:最強決定武闘会の優勝旗盗まれる。
・1985年:クロ高初の大学進学者が出る。山車や御輿で祝う。
・1987年:またしても学校丸ごと入学式の日にち間違える。新入生大混乱。
・1995年:交換留学生制度開始。海外の学校との遺恨勃発。
・1997年:第一回クロ高フィルムフェスティバル(CFF)開催。優秀作品に「高三 ゴッドファーザー」「そうはいっても18歳」
・1998年:運動会が行われたが、近隣の住民がヤクザの抗争と勘違いし警察に通報。騎馬戦でパトカー暴走。怪我人多数。
・2001年:学校に突如隕石が飛来。校舎全壊。


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パワナンバー
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陽気な助っ人外国人。お茶目なパフォーマンスでファンからよく親しまれた。守備位置は主にセンター。
1986年は打率.363と打ちまくったがバースの.389というNPB史上最高打率に阻まれ首位打者獲得は成らなかった。
年齢もあり引退を覚悟して臨んだ89年は軽打に徹し規定打席到達時点での打率4割を達成。ただシーズン終了まで出場を続けたために最終打率は.378となった。





走力と守備は皆さんのクロマティのイメージより高いかもしれませんが、これは衰える前ということでそうしています。

満塁男は1986年に頭部死球を受け搬送されたものの、翌日に病院を抜け出し代打満塁ホームランを放ったという逸話からきています。
クロマティはこの時チームメートの喜びに満ちた顔を見ながら、ようやく本当にチームの一員になれたと感じた。と語っています。

伝説の乱闘事件や引退後のプロレスラーデビューなど話題に事欠かない選手なので解説文を書くのが楽でした。
こういう派手な選手は助かりますね。

86年は前半不調に陥り打率1割台付近まで低迷してスタメンを外される試合も多く、クロマティ自体調子の波が激しい選手なので調子極端を付けようと思っていたのですが忘れてました。

一塁を度々守ることもあったので一塁適正を付けるつもりでしたが、これも忘れました。
痴呆症の老人を見るような温かい目で見守っていただけると幸いです。

2005年にはクロマティ高校の実写映画に対して訴訟を起こしたが、どう考えてもフレディの方がヤバいです。







1 件のコメント:

  1. ジョーダン・ヤマモトとルイス・カスティーヨ二(投手)人選手を作ってもらえますか?

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